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香港競馬の概要

香港競馬の概要

躍進目覚ましいアジアのトップランナー

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中華人民共和国の特別行政区である香港は、アジアはもちろん、世界でも最も競馬が盛んな地区のひとつである。近年の国際化施策の成果から、2016年よりIFHA(国際競馬統括機関連盟)の定めるパートI国となった。開催シーズンは毎年9月から翌年7月初旬を一区切りとしており、馬の年齢はそれぞれの産地に準拠している。北半球産馬は1月1日に、南半球産馬は8月1日に加算される。

東京23区の2倍弱、札幌市とほぼ同じ陸地面積に人口約730万人を有する香港には、シャティン(沙田)競馬場、ハッピーバレー(●馬地/快活谷)競馬場の2つの競馬場を有する。共に政府公認の非営利団体である香港ジョッキークラブが主催・経営しており、2014-15年シーズンには過去最高となる1079億香港ドル(約1.6兆円)の売り上げを記録。市場規模としては日本、アメリカに次ぐ世界3位で、単一の主催者としてはJRAに次ぐ世界2位、人口1人あたりの売り上げは世界1位となった。香港内には2つの競馬場のほかに100か所を超す香港ジョッキークラブ直営の場外馬券発売所があり、それだけ競馬が市民の娯楽として根付いていることがわかる。

  • ※●=足へんに包

それだけに、提供されるレースの質も非常に高い。国内で馬産は行われておらず、競走馬資源は諸外国からの導入によるものだが、ヨーロッパ各地やオセアニアから、新馬のほかに、現役のトップホースの移籍も積極的に行われている。1人の馬主が所有できる頭数は同時に3頭までという制限があるため、馬主としての成功は香港でも非常に大きなステータスとなっている。

所属する騎手、調教師共に、ほぼ半数が中国籍を含めた香港ローカルで、他は外国籍となっている。特に外国籍の騎手については、世界各地のトップジョッキーが集まっていると同時に、ここをステッピングボードにして飛躍する騎手も少なくない。ただ、シーズンを通して基準の成績を下回った場合には、次シーズンのライセンスが認められないなどの制約があり、これらのライセンスの取得、維持については非常に厳しいものとなっている。

香港における競馬の始まりは、1912年から19年までの第15代香港総督で、熱心な競馬愛好家だったフランシス・ヘンリー・メイ卿が編さんした「Notes on Pony and Horse Racing in Hong Kong,1845-1887」からその多くを知ることができる。これによると、イギリスの入植が始まった1840年代に行われたものが最初とされている。新聞などの公式な記録として残っているのは、1846年12月17日と18日の2日間、当時ウォンネイチョンバレーと呼ばれていた現在のハッピーバレーで開催されたものが最初で、竹製のラチで囲われた簡易なコースで行われた。以来、公式な競馬開催は、おもに旧正月の時期に単一、または数日間で開催されるようになった。

当時の香港の人口は2万4000人に満たないほどで、このうち、駐留する軍隊を除いたヨーロッパ人の人口は約600人。当時のスケッチには、羽帽子やドレスで着飾った女性や、彼女らをエスコートする男性の様子のほか、地元民の集まる公衆エリアで行商人が観客に飲食物を販売してにぎわう様子などが描かれている。

当初の競馬は、入植したイギリス人の将校らが騎乗して競う形で行われた。前述のメイ卿自身も士官候補生時代に騎手として参加している。騎乗する馬は、アラブ種、マニラ産のポニー、オーストラリアや南アフリカ産の軽種馬が使用され、後に中国・満州産のポニーが重用されるようになった。

この頃に香港や中国本土で事業を行っていた企業や統治政府がスポンサーとなり、カップ戦が多く設けられた。1873年に第1回が行われた香港ダービーなど、この中には現在にも継承されるものが少なくない。また、騎手として当時多くのカップ戦を勝利し、後に香港ジョッキークラブの会長を務めナイトの称号を得るポール・チャター卿の名前は、現在でも香港古馬三冠の第3戦「チャンピオンズ&“チャター“カップ」の中に残されている。

これらが発展する形で1884年に組織されたのが香港ジョッキークラブである。香港ジョッキークラブは、全てのレース活動を組織することに加えて、その時点で、まだ独立したプライベートクラブを通して行われていた賭事を全て管理し、それらから手数料を徴収することが目的とされた。一方で、プライベートな障害レースも依然中国との国境に近い新界エリアの駐屯地などでは開催されており、それらは半ば黙認の形が取られていたが、1941年の日本による香港占領と前後して自然に消滅するに至った。

日本占領下で一旦は競馬開催が中止されるも、日本軍の要望で再開される。しかし、この頃競走馬資源は不足しており、しばしば馬車バスの曳き馬を競走馬として転用することもあった。当時の競馬は、距離と斤量によるハンデキャップレースが主流として行われていたという。

戦後、再びイギリス統治に戻ると、中国産ポニーや他の軽種馬による競馬から、サラブレッドの競馬へとシフトしていく。1960年にはイギリス王室の認証を受け、ロイヤル香港ジョッキークラブとなる。1975年にはエリザベス2世女王陛下を迎えての競馬開催が行われ、同時に香港における全ての馬に関する競技とその周辺管理、運営、促進を一括して執り行うことが決められた。

これと前後する1971年、それまで騎手と調教師は全てアマチュアだったものから、プロライセンス化される。それとほぼ同時に騎手養成アカデミーが開設され、香港プロパーのプロ騎手の育成にも力を入れるようになった。

興行面では、1969年にハッピーバレーのスタンドがほぼ現在の形に改修され、1973年にはナイター競馬が初めて開催される。1972年1月には、初めての国際騎手招待競走インターナショナルインビテーションカップが開催。現在行われているロンジン・インターナショナル・ジョッキーズ・チャンピオンシップの基礎となる。さらに1978年に新界にシャティン競馬場がオープン。以降はシャティン競馬場が香港におけるメイントラックとなり、1988年には国外から競走馬を招待する香港インビテーションカップが、マレーシア、シンガポールから6頭の招待馬を集めて行われた。これが現在の香港国際競走へとつながっている。

わが国との関連は、戦後以降では、1975年のインターナショナルインビテーションカップに、横山富雄騎手(横山典弘騎手の父)が招待されたのが最初となる。横山騎手はPalinurusに騎乗、レスター・ピゴット、パット・エデリー、ビル・スケルトン、ジョニー・ローといった各国のチャンピオン騎手と競い、見事に勝利を挙げた。

競走馬の往来は、1993年4月に行われた香港国際ボウルにホクセイシプレーが出走(14着)したのが最初。日本馬の香港における初勝利は、1995年12月の香港国際カップでフジヤマケンザンが達成した。また、日本産馬が香港所属馬になったケースとしては、Twinkling Star(1998年生まれ、父エルハーブ、母ミスクウォドラティカル)が最初で、初勝利は2004年1月1日のShare the Fun(2000年生まれ、父アフリート、母ヤチャボウガール)だが、それ以降数頭が出走しているものの、勝利には至っていない。

  • ※1香港ドル=15円で換算

文:土屋真光
(2016年11月現在)

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