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●マイルストーン(Milestone)賞 マイルストーン(milestone)は、道路に1マイルごとに設置される標石・標識のこと。転じて、「画期的な出来事、節目」といった意味を持つ。平成24年にグランドオープンという大きな節目を迎える中京競馬場は、全面的な馬場改造により、新たにマイルでの競走の施行が可能となった。
●中京競馬場グランドオープン記念 本競走は、中京競馬場のグランドオープンを記念して施行される。
約2年間に及ぶスタンド改築および馬場改造工事により完成した新スタンド「ペガサス」は、斜めに配置されたパドックをスタンドに効果的に取り込む形で設計されるとともに、お客様が地下の検量エリアや優勝馬の脱鞍等をガラス越しに見ることができる『かちうまビュー』などの新しい施設を備えている。
また3、4コーナー側に拡張された馬場は、新設の1,600mの芝コースを始めとして、様々な距離設定が可能となった他、ゴール前の直線には西日本一の急坂(勾配)が設けられたことにより、従来の平坦小回りコースのイメージを一新する競馬場に生まれ変わった。
●プロローグ(Prologue)カップ プロローグ(prologue)は、英語で「序幕、物事の始まり」の意味。本日から、中京競馬場とお客様の新たな物語が始まる。
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●フローラルウォーク賞 フローラルウォーク(花の遊歩道)は、名鉄名古屋本線中京競馬場前駅から中京競馬場までを結ぶ屋根付きの通路の愛称。平成17年に名古屋競馬株式会社の施工により完成したもので、上屋は四季折々の花で飾られており、雨の日も濡れることなく駅と競馬場との往復を可能にしている。なお、24年の中京競馬場のグランドオープンにあわせて、各種モニュメントが新設されることとなった。
●中日新聞杯(GIII) 本競走は、昭和40年に創設された重賞競走。初年度は『中日杯』の名称で施行され、翌年に現在の名称に改められた。当時の中京競馬場は芝コースがなかったため、砂1,800mで施行されていたが、45年に芝コースが新設されたことに伴い芝1,800mで施行されるようになり、平成18年からは距離が2,000mに変更されている。施行時期は従来1〜3月であったが、12年より12月に移設され、本年より従来の時期に戻され、4歳以上馬による競走として施行される。
中日新聞社は、名古屋市に本社を置く新聞社。本競走は同社より寄贈賞を受けている。
●ペガサススタンド竣工記念パノラマビューカップ 本競走は、新スタンド「ペガサス」竣工を記念して施行される。なお、ペガサスはお客様からの一般公募により決定された愛称である。
ペガサスは、国内競馬場で初めてとなるソーラーパネルを搭載するなど、人と地球に優しい環境共生型のスタンドとなっている。また、大屋根には「ペガサス」の由来の一つとなった膜屋根を採用。ペガサスの屋外観覧席から眺める全景(パノラマビュー)は、以前にも増して迫力あるものとなっている。
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●熊野(くまの)特別 熊野は、三重県南部の熊野灘に面する市。吉野熊野国立公園内に位置し、地域は豊かな自然と温暖な気候に恵まれている。また、スサノオ神話の地としても知られており、平成16年には熊野古道が世界遺産に登録された。
●伊勢(いせ)特別 伊勢は、三重県南東部の市。伊勢神宮の鳥居前町として発展した。伊勢志摩国立公園の表玄関となっている。また旧国名のひとつで、志摩国に属した志摩半島、伊賀国に属した上野盆地周辺、紀伊国に属した熊野地方東部を除いた現在の三重県一帯を指す。
●刈谷(かりや)特別 刈谷は、愛知県三河地方西部の市。地名は、元慶元年(877)に出雲より一族を連れ移住した狩谷出雲守の名に由来する。また、徳川家康の生母「於大(おだい)の方」ゆかりの地としても知られている。市の中心部は自動車関連企業が並び、自動車関連産業の中心地として発展している。
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●沈丁花(じんちょうげ)賞 沈丁花は、中国原産のジンチョウゲ科の常緑低木。早春、香りの強い花を多数開く。雌雄異株であるが、日本に生息するものはほとんどが雄株であり実を結ばない。名前は、花の香りを沈香(じんこう)と丁字(ちょうじ)に例えたことに由来している。花言葉は「栄光」「永遠」。
●中京スポーツ杯 中京スポーツは、昭和43年より東京スポーツ新聞社から発行されている夕刊スポーツ紙。本競走は、58年に東京スポーツ新聞社より寄贈賞を受けて創設された。
●熱田(あつた)特別 熱田は、名古屋市南部の区。熱田神宮の門前町として発展した。江戸時代には宮宿(みやのしゅく)と呼ばれ、東海道最大の宿場町として栄えた。熱田神宮は熱田大神を祭神とし、神体は草薙剣(くさなぎのつるぎ)であり、「熱田さま」「宮さま」として親しまれている。
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●金山(かなやま)特別 金山は、名古屋市中区と熱田区との境の地区。金山駅は平成元年にJR中央線および名古屋市営地下鉄の金山駅と、名古屋鉄道の金山橋駅を統一してできた総合駅であり、名古屋市では名古屋駅に次ぐ主要駅である。周辺は「名古屋ボストン美術館」や「アスナル金山」などの複合施設があり、名古屋の中心街の一つとなっている。
なお、金山付近にはJRAの場外勝馬投票券発売所であるウインズ名古屋がある。
●中日スポーツ賞ファルコンステークス(GIII) 本競走は、昭和62年に『中日スポーツ賞4歳ステークス』の名称で創設された重賞競走。当初は1,800mで争われていたが、平成8年より距離が1,200mとなり、13年に現在の名称となった。その後、重賞競走体系の見直しに伴い、18年より施行時期が6月から3月に移設された。本年より距離を1,400mに変更して施行される。
ファルコン(falcon)は、英語で「ハヤブサ」の意味。
中日スポーツは、名古屋市に本社を置く中日新聞社が発行するスポーツ紙。本競走は、同社から寄贈賞を受けて施行される。
●鈴鹿(すずか)特別 鈴鹿は、三重県北部の市。古くは伊勢国府・国分寺が置かれた。市の西部には、日本初の国際レーシングコースである鈴鹿サーキットがあり、自動車レースの最高峰F1の日本グランプリやオートバイの鈴鹿8時間耐久ロードレースなどが開催される。
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●はなのき賞 はなのきは、ハナカエデとも呼ばれるカエデ科の落葉高木。花の木とも書く。木曽川流域などに自生し、庭にも植えられる。春、葉に先立って濃紅色の花が咲き、5月ごろ実を結ぶ。秋には鮮やかに紅葉または黄葉する。愛知県の木になっている。
●中京スポニチ賞 スポーツニッポン新聞社は、東京・大阪に本社を置く新聞社。本競走は、同社より寄贈賞を受けて施行される。
●岡崎(おかざき)特別 岡崎は、愛知県中南部の市。矢作川とその支流である乙川の流域に位置し、東海道の宿駅として発展した。徳川氏ゆかりの地で、家康の生地でもあり、市内には岡崎城跡など多くの史跡が残っている。600年ほど前から醸造されている八丁味噌が名産。
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●大寒桜(おおかんざくら)賞 大寒桜は、バラ科サクラ属の落葉高木。花は、半開状で下を向いて咲き、寒桜よりやや遅く、ソメイヨシノよりも前に開花する。なお、中京競馬場のグランドオープンにあたり、中京馬主協会より3、4コーナーのコース外周沿いに大寒桜が寄贈された。
●名鉄杯 名鉄は、名古屋鉄道株式会社のこと。名古屋市を中心として愛知、岐阜両県にまたがる路線を持ち、沿線には中京競馬場の最寄り駅である中京競馬場前駅がある。同競馬場には名鉄の元特急電車7000系パノラマカーを保存展示した『パノラマステーション』がスタンド東側に設置されている。
本競走は、平成14年に同社から寄贈賞を受けて創設された。
●豊橋(とよはし)特別 豊橋は、愛知県南東部の市。豊川下流南岸に位置する。松平氏の城下町、東海道五十三次の吉田宿・二川宿として発展した。遠州灘沿いの表浜海岸はアカウミガメの産卵場所でもある。
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●三河(みかわ)特別 三河は、旧国名のひとつ。現在の愛知県東部にあたる。三河湾は愛知県南部の湾で渥美半島と知多半島に囲まれ、渥美湾・知多湾に分かれる。ノリ・アサリの養殖が盛ん。
●名古屋城(なごやじょう)ステークス 名古屋城は、名古屋市にある城。大永年間(1521〜1528)に今川氏が同地に那古野城を築き、後に織田信長が拠るが、同氏が清洲に移ったため廃城となった。現在の城は、1609〜14年の間に徳川家康の命により諸大名が築いたもので、尾張徳川家の居城となっていた。また、天守の金の鯱により金城と称された。天守は、昭和34年に再建されたコンクリート製だが、ほぼ正確に外観復興されており、金鯱(きんこ)とともに名古屋の顔となっている。また、正門と大小天守以外の建造物はすべて戦災を免れた現存物で、ほとんどが重要文化財になっている。
●高松宮記念(GI) 本競走は、昭和42年に創設された『中京大賞典』を前身とする競走。46年に高松宮殿下から優勝杯を賜ったのを機に改称し、『第1回高松宮杯』として施行された。以来、距離2,000mの別定戦として争われてきたが、平成8年に距離が1,200mに変更されると共に、GIIからGIに格上げされ、中京競馬場初のGI競走となった。また、10年より競走名が『高松宮記念』に変更され、5月から3月下旬に移設して施行されている。春の古馬スプリント路線の頂点を決める競走であるとともに春のGIシリーズの始まりを告げる一戦となっている。また、グローバルスプリントチャレンジの対象競走となっている。
●瀬戸(せと)特別 瀬戸は、愛知県中北部の市。良質の陶土を産し、鎌倉時代以来、日本有数の陶磁器の産地となっている。鎌倉時代に加藤藤四郎が中国から陶法をこの地に伝えたのが日本の陶器の起源といわれる。室町時代までは古瀬戸と呼ばれる陶器が主流であった。桃山時代には瀬戸黒、志野焼、織部焼、黄瀬戸などの茶陶が多く造られた。江戸時代の一時期、瀬戸の陶業は衰退したが、文化元年(1804)に加藤民吉が九州・有田(伊万里焼)の製磁法を習得して瀬戸で応用し、染め付け磁器の焼成に成功してから再び盛んになった。
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