競馬を愛した人々

競馬を愛した人々 #21 五木寛之



 二十代の半ば、五木寛之は中山競馬場の近くに移り住んだ。中山競馬場に足繁く通うためである。「総武線の下総中山という駅で降り、二十分ほど歩いた北方町(ボッケマチ)という静かな場所だった」。土日は中央競馬、平日は船橋競馬に熱中した。時には浦和競馬場まで遠征することもあった。ハクチカラ、キタノオーが名勝負を繰り広げていた昭和30年から32年にかけてである。アルバイトで生活をしつつ、作家修業に勤しみ、競馬とテレビでのプロ野球観戦に熱中していたこの時期を、五木は「すこぶる健全な生活」と自己分析している。「そういう時期が、二十代の終りには一度はあるものらしい。これから踏みこんで行く中年の世代と、まだ青年のしっぽの残っている年代との谷間にいて、何かもやもやした中途半端な状態にいたのだろう」(深夜草紙PART2「中山・船橋・三国」)。最後に買ったのはハクチカラとキタノオーの一騎討ち馬券だった。的中した低配当のそれは払戻しせず、ずっと五木の定期券入れの中にあった。その後、夫人の実家のある金沢に移住するが、そこでもたまに金沢競馬場をのぞいたりしている。


昭和30年★第7回朝日盃三歳ステークス
優勝馬キタノオー(1番人気のハクチカラは2着)
 五木の記憶にある初めての競馬場は、当時住んでいた平壌(現在の北朝鮮ピョンヤン市)の競馬場である。昭和16年、小学生だった五木は父親に連れられて何度も出かけている。教育者だった父の「心理学ノート」と題された大学ノートには、競馬新聞の切りぬきや過去のデータが一杯詰まっていた。父親はデータ派だった。「鉛筆で何やら計算をしてはマークをつけていた。コンピューターなどという便利なものが出来た現在なら、きっとそのお世話になる口ではないかと思う」(風に吹かれて「競馬その他について」)。
 五木は、作家になる前に勤めていた音楽業界を振り返り、「あの世界には馬が本当に好きな人が多く、また競馬に本気で打ち込んでいるディレクターほど、いい仕事もしていたような気もする」と書いている(ゴキブリの歌「ギャンブル無常」)。


昭和31年★東京優駿(第23回日本ダービー) 優勝馬ハクチカラ(1番人気のキタノオーは2着)
 小説現代新人賞を受賞した出世作『さらばモスクワ愚連隊』(昭和41年)にはモスクワの競馬が登場する。ダートコースの繋駕競走は、連勝馬券ではなく、ふたつのレースの単勝を当てる重勝式馬券であること、ガガーリン、ライカというような名の馬がいたという思い出を、後に随筆集『風に吹かれて』に綴っている。

 平成3年に発刊された『ワルシャワの燕たち』には、<武豊も結構すごいけど、ポーランドの「連帯」ってのもなかなかやりますね>という会話がある。社会主義国ポーランドの民主化を推進した労働組合「連帯」が世界的な話題となっていた。それと並んで、昭和62年のデビュー以降、次々と騎手記録を塗りかえつつあった武豊騎手の名が登場している。小説の主人公はポーランドのワルシャワ競馬場で馬券勝負をして大敗する。ガイドのポーランド人が結びに言うセリフ。「ポーランドじゃ、競馬に負けて帰ることを、馬に餌代をおいてきた、というんです」。


昭和32年★第3回産経賞オールカマー 1着キタノオー(1番) 2着ハクチカラ(4番) 2頭の直接対決は6勝4敗でキタノオーが勝ち越した
 五木が競馬好きだった片鱗はいまも時折顔を見せる。平成17年下半期の直木賞は東野圭吾の『容疑者Xの献身』が受賞する。ぶっちぎりだった。選考委員の五木もこの作品を本命として推した。その選評の一部にこんな箇所がある。「東野圭吾さんの出足の良さ、競馬にたとえれば水際立った先行逃げ切りの完勝ぶりは、きわめて印象的だった」。(文中敬称略)

五木寛之(いつき・ひろゆき)

昭和7(1932)年9月30日、福岡県生まれ。80歳。作家。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、『青春の門・筑豊編』で吉川英治文学賞、『親鸞』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。数多くの小説・翻訳・随筆・作詞に加え、美術・仏教など様々な文明批評の功績により、菊池寛賞、仏教伝道文化賞を受賞した。主な作品に『四季・奈津子』『大河の一滴』『他力』がある


JRA発行の『優駿』は昭和16年に創刊され、昨年70周年を迎えました。通巻では800号を超えており、これまでさまざまな作家・文化人の方々にご寄稿いただきました。

2012.12.15 レーシングプログラム掲載

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