競馬を愛した人々

競馬を愛した人々 #9 寺山修司


昭和38年 福島記念 ミオソチス(1着)
ミオソチスはオールカマー、東京盃(現東京新聞杯)と
2つの重賞を制覇した
「遊びっていうのはもう一つの人生なんだな。人生じゃ敗(ま)けられないことも遊びでだったら敗(ま)けることができる」。昭和48年の日本中央競馬会のテレビCMで劇作家寺山修司はつぶやいている。

 昭和39年、大好きな牝馬ミオソチスが中央から地方競馬に移籍したことを、寺山は「うす汚れた、雨もり小屋の中で、あの美しい馬ミオソチスがどんなみじめな日を送っているか」と案じた(みんなを怒らせろ「さらばミオソチス」)。地方競馬への偏見だと船橋の森誉騎手から抗議の手紙が届く。新宿で会い、自身の不明を恥じた寺山は、やがて船橋競馬の調教師となった森のもとで馬主となる。馬の名はユリシーズ。生涯ただ1頭だけの馬主体験だった。それから地方競馬贔屓になる。昭和43年の日本中央競馬会機関誌『優駿』には、大井競馬から中央入りするヒカルタカイを「私は草競馬からやってきた馬が、中央で活躍するのを見るたびに、なぜか胸があつくなってくるのを覚えるのである」と記している。寺山の期待に応え、ヒカルタカイは天皇賞(春)と宝塚記念を制した。

 寺山は欧米の競馬にも詳しかった。主宰している劇団「天井桟敷」の海外公演との関係から、昭和43年のケンタッキーダービーや、日本のメジロムサシが挑戦した昭和47年の凱旋門賞(勝ち馬はサンサン)も現地で観戦している。ケンタッキーダービーは、「踊り子の面影」と自己流で訳した馬名が気に入って応援したダンサーズイメージが勝った。馬券も的中し「五百ドル儲けた」寺山はその観戦記を『優駿』に送稿する。送稿後に尿検査から薬物使用と判断されたダンサーズイメージの失格を知る。2週間後のプリークネスステークスも現地で観戦した。ダンサーズイメージは3位に入線したが進路妨害で降着になる。この非運の名馬に思い入れのある寺山は「私の忘れがたかった馬ベスト・テン」のランキングで、ミオソチス、カブトシロー、モンタサン、ホワイトフォンテンら10頭の名を並べた後、「番外」としてダンサーズイメージの名を挙げている。


昭和48年 第33回皐月賞 ハイセイコー(7番) 
 昭和49年の有馬記念で引退したハイセイコーに捧げた「ふりむくと 一人の少年工が立っている」で始まる惜別の詩「さらば ハイセイコー」(競馬への望郷)は、ハイセイコーを知らないファンの胸をも熱くする。「ふりむくと」で様々な形のファンの心情を描いた寺山の詩は、「ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない」と転じて行く。

 寺山の好んだ騎手は中島啓之と吉永正人だった。ふたりのダービーを勝つ姿を見たいと願っていた。中島は昭和49年にコーネルランサーでダービーを制する。吉永は昭和55年にモンテプリンスで1番人気におされたが2着だった。

 昭和58年、いよいよ吉永にもその時がやってくる。4月17日、寺山は昭和45年秋から報知新聞に連載していた競馬コラム「風の吹くまゝ」に皐月賞の本命を吉永のミスターシービーと書く。その後、体調が悪化しこれが最終回となった。皐月賞を勝った吉永がミスターシービーでダービーを制する5月29日を見ることなく、5月4日、47歳の若さで生涯を終えた。人生と競馬を絡めた独創の「寺山競馬」は、今も競馬ファンの中に生きている。(文中敬称略)

寺山修司(てらやま・しゅうじ)

昭和10(1935)年12月10日、青森県弘前生まれ。詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」を設立し世界各国で上演。ベオグラード国際演劇祭では『邪宗門』がグランプリを受賞した。テレビの脚本家、映画監督など様々なメディアでも活躍。『書を捨てよ、町へ出よう』はサンレモ映画祭グランプリを獲得した。昭和58(1983)年5月4日死去

JRA発行の『優駿』は昭和16年に創刊され、昨年70周年を迎えました。通巻では800号を超えており、これまでさまざまな作家・文化人の方々にご寄稿いただきました。

2012.5.26 レーシングプログラム掲載

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