競馬を愛した人々

競馬を愛した人々 #8 山口瞳


昭和43年 第58回天皇賞 
ニットエイトと森安弘明騎手
 作家山口瞳は、競馬、将棋、野球、絵画と趣味の多い粋人であった。趣味から発して単行本になったものも多い。競馬では、全国の公営競馬場を踏破した『草競馬流浪記』、競馬評論家赤木駿介との共著『日本競馬論序説』がある。

「オール讀物」に連載された『世相講談』には、競馬を題材にした短編「待てば海路」「アポッスル」が収められている。昭和38年から31年間連載した「週刊新潮」の看板コラム『男性自身』には、ダービーや天皇賞の時期になると毎年競馬の話が登場した。

 山口は騎手との交流も深かった。昭和43年9月、かつて山口が勤めていたサントリーから広告の出演話が来る。親しい騎手森安弘明と語りあう形の雑誌広告である。昭和28年の桜花賞(カンセイ)、昭和37年秋の天皇賞(クリヒデ)、昭和41年の菊花賞(ナスノコトブキ)と八大競走の3勝を始め、やたら重賞に強い森安(生涯通算143勝中、重賞29勝)だが、ここ2年ほどは無縁だった。「俺なんか駄目だよう」と遠慮する森安を強引に誘って出演した。その秋、森安は天皇賞を6番人気のニットエイトでレコード勝ちする。その時のうれしさを山口は日本中央競馬会機関誌『優駿』に「私は群衆を押しわけるようにして、表彰台にむかう森安に近づいていった。彼はなかなか私に気づかなかった。気づいたと思ったとき抱きついてきた」「『これでサントリーが売れるようになるかも知れない』、あとになってから森安は言った」と記している。


昭和59年 第4回ジャパンカップ 第4コーナー
 国立市在住の山口のホームグラウンドは東京競馬場。定位置である4階ベランダから、毎レース、パドックを見おろして検討する。まだ小説家デビュー前だった浅田次郎は、その隣に立ち、毎週顔を合わせる競馬好き同士として気楽に山口と会話していた。後にそのおじさんが文壇の大先輩の山口だったと知って仰天する。当時の様子を浅田は「山口さんは東スタンドの方から運動靴をはいて走ってきて、いつもの場所に立つ。私もレストランを出て、肩を並べるように双眼鏡を覗きこむ」と書いている(勇気凛凛ルリの色「縁について」)。「競馬場に行くとやたら歩くので健康にいい」と万歩計を身につけていた山口の姿が偲ばれる。

 山口の会心の馬券は昭和59年の第4回ジャパンカップ。日本馬が初めて勝ったJCである。勝ち馬はカツラギエース。欧米の代表馬や、ミスターシービー、シンボリルドルフという日本の三冠馬2頭を尻目に鮮やかに逃げきった。パドックを見てカツラギエースの気配の良さを感じた山口は、他に逃げ馬がいないことから注目し的中する。単勝10番人気、配当は40倍。「馬券は単勝複勝が基本」を主張した山口の面目躍如である。

 体調を崩した晩年は『男性自身』に絞って筆をふるった。平成7年、治療中の肺癌が悪化して死去。69歳。急逝だったため『男性自身』は連載中のままであり、初回から31年9ヵ月、1614回、一度も休載なしだった。(文中敬称略)

山口瞳(やまぐち・ひとみ)

大正15(1926)年11月3日、東京生まれ。編集者、コピーライターを経て小説家となる。昭和38(1963)年に『江分利満氏の優雅な生活』で直木賞、昭和54(1979)年に『血族』で菊池寛賞を受賞。代表作に『男性自身』シリーズ、『世相講談』『山口瞳血涙十番勝負』『居酒屋兆治』『家族』がある。平成7(1995)年8月30日死去

JRA発行の『優駿』は昭和16年に創刊され、昨年70周年を迎えました。通巻では800号を超えており、これまでさまざまな作家・文化人の方々にご寄稿いただきました。

2012.5.19 レーシングプログラム掲載

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