競馬を愛した人々

競馬を愛した人々 #7 古山高麗雄


昭和31年 東京優駿(第23回日本ダービー)
1着ハクチカラ(4番) 2着キタノオー(25番)
 作家古山高麗雄の競馬歴は長い。戦争に行ったのが昭和17年、帰国したのは昭和22年の暮れだった。銀座に場外馬券売場が出来たのが昭和23年。古山が馬券を買い始めたのは昭和24年からになる。

 河出書房に勤めていたこの頃、古山の馬券は絶好調だった。「月給は7千円程度。ボーナスを入れて年収は15万円内外。競馬の儲けはそれ以上にあった」。誰もに馬券名人と認められたが、どうやらそれは「ビギナーズラックが7、8年続いただけのようだ」と後に、日本中央競馬会機関誌『優駿』で述懐している。生活の安定とともに馬券成績は落ちていった。

 昭和31年。古山が惚れこんだ馬にキタノオーとハクチカラがいる。宿命のライバルだった2頭の闘いは3歳(現2歳)から始まる。ハクチカラが東京優駿(日本ダービー)を勝ち、キタノオーが菊花賞を勝った。古馬となってからは、キタノオーが春の天皇賞を、ハクチカラが秋の天皇賞を勝っている。オールカマーや目黒記念でも一騎討ちの名勝負を繰り広げた。普段は少額の馬券勝負だった古山だが、この2頭のレースには、月給の三分の一を枠単1点勝負(当時の馬券は6枠連単制)に注ぎこんで観戦した。キタノオーとハクチカラの競馬史に残る「名勝負数え歌」は、10回対戦してキタノオーの6勝4敗である。

 秋の天皇賞に続き昭和32年の有馬記念も制したハクチカラは、32戦20勝の成績で、昭和33年5月アメリカに遠征する。その後も滞在し、昭和34年にワシントンズバースデイハンデキャップを勝つ。日本調教馬で海外の重賞を勝った最初の馬である。

 もう1頭、古山の忘れられない馬にスピードシンボリがいる。昭和41年、「距離が延びれば」と早くから目を点けて応援していたが、皐月賞は21着、ダービーは8着だった。それでも菊花賞では単勝勝負をする。単勝14番人気。惜しくもナスノコトブキにハナ差で敗れ2着だった。続く有馬記念は3着。明けて5歳(現4歳)の昭和42年、スピードシンボリは春の天皇賞を勝って無冠を返上する。

 昭和44年、河出書房や季刊藝術社で多くの人材を発掘した名編集者の古山は小説を書き始める。スピードシンボリは日本馬として初めて凱旋門賞に挑む。大敗したが、帰国後有馬記念を勝つ。昭和45年『プレオー8の夜明け』で古山は芥川賞を受賞し作家生活を始める。古山の受賞を祝うかのように、8歳(現7歳)のスピードシンボリは有馬記念史上初の連覇を達成し有終の美を飾る。スピードシンボリの血は、昭和59年に我が国競馬史上初の「無敗の三冠馬」シンボリルドルフの母の父として輝く。ルドルフもまたスピードシンボリ以来の有馬記念連覇を成し遂げた。

 古山は、競走馬の勝ち負けも人間の人生も「運」の要素を重視した。自身に関する評価も「ぼくは運が良かっただけ」と穏やかに語った。晩年に寄せた『優駿』の随筆は「二十一世紀になっても、何がどう変わろうと、私たちが運に左右される原理だけは変わらない」と結ばれている。平成14年81歳で没。高い見識と気さくな人柄で多くのひとに慕われた作家だった。(文中敬称略)

古山高麗雄(ふるやま・こまお)

大正9(1920)年8月6日、朝鮮新義州生まれ。復員後、編集者を経て小説家となる。『プレオー8の夜明け』で芥川賞、『小さな市街図』で芸術選奨新人賞、『セミの記憶』で川端康成文学賞、『断作戦』『龍陵会戦』『フーコン戦記』の三部作で菊池寛賞を受賞した。平成14(2002)年3月11日死去

JRA発行の『優駿』は昭和16年に創刊され、昨年70周年を迎えました。通巻では800号を超えており、これまでさまざまな作家・文化人の方々にご寄稿いただきました。

2012.5.12 レーシングプログラム掲載

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