競馬を愛した人々

競馬を愛した人々 #6 サトウハチロー


昭和初期の阪神(鳴尾)競馬場
 いまも歌いつがれる童謡「ちいさい秋みつけた」「かわいいかくれんぼ」や、敗戦の日本を勇気づけた大ヒット曲「リンゴの唄」の作詩家であるサトウハチローは大の競馬ファンだった。

 サトウは、昭和初期に『あゝ玉杯に花うけて』等の少年小説の作家として人気を博した佐藤紅緑の子である。長男だが、祖父の8番目の孫だったので「八郎」と名づけられたという。

  戦争のため昭和19年、20年と休止されていた競馬は昭和21年10月から再開される。昭和20年の1・2月合併号から休刊していた日本中央競馬会(当時は日本競馬会)機関誌『優駿』も昭和21年3月号から復刊した。

 サトウは朝の競馬場が好きだった。誰もいない早い時間に出かけてゆく。「競馬場の芝生に、朝露が下りてゐる。小鳥がチヨンチヨンと歩いてゐる。いゝキモチである」。週末の昂揚を「前日の出馬表が街へ出るたのしみ、買つて家へかへツて、これかな、いやこれだらうなどと、ひとりごちて、盃をなめてゐる、何とも言へないたのしさ」と、いよいよ戦後の競馬開始間近となった『優駿』に綴っている。

 サトウの競馬好きは父紅緑ゆずりである。サトウの母も競馬好きだった。母の馬券を「僕のおふくろも競馬フアンで、おやぢよりはいくらか上手なのだ」と評している。紅緑は戦前から馬主であり、「東の菊池寛、西の佐藤紅緑」と呼ばれた文人馬主の双璧である。当時の佐藤家は鳴尾にあり競馬場はすぐ近くだった。阪神競馬場が鳴尾にあった時代である。これは今もレース名「鳴尾記念」に名を残している。

   紅緑は自宅に騎手を招き親しく交遊した。中でも最もかわいがったのがタケブンこと武田文吾だった。後に三冠馬シンザンを育てた名伯楽武田の騎手時代である。武田は俳号「牧人」として俳句も嗜んだ。これを指導したのが俳人の紅緑だった。

 紅緑は病気で競馬場に行けなくなってからも、臥(ふせ)っていた二階にサトウを呼び、競馬の話を聴いて楽しんだ。昭和24年、紅緑の葬儀では武田文吾騎手の涙ながらの弔辞に遺族が嗚咽した。

 サトウは、紅緑の死後、あまり競馬場に行かなくなった。その理由を「競馬場へ行くとおやじの知り合いがうじやうじや來(き)てる。話せば必ず向うはおやじについて語る。涙ぐんだりはしないが、それがつらい」とし、もうひとつの理由を、交流のあった競馬好き文人の吉川英治、吉屋信子、舟橋聖一、小学校の同級生の常ちゃん(富田常雄)らと比して「皆小説家である。そうしてボクは詩人。ガマ口の重さが違うのである」と記している(『中央公論』昭和26年7月号「作家と競馬」)。

 昭和48年、70歳で没。平成8年、岩手県北上市に「サトウハチロー記念館」が開館した。(文中敬称略)


サトウハチロー

明治36(1903)年5月23日、東京生まれ。詩人、作詞家、小説家。童謡集『叱られ坊主』で芸術選奨文部大臣賞、「ちいさい秋みつけた」で日本レコード大賞童謡賞、優れた詩作と出演により子供番組等の充実に寄与しNHK放送文化賞を受賞している。昭和41(1966)年紫綬褒章、昭和48(1973)年勲三等瑞宝章受章。昭和48(1973)年11月13日死去。

JRA発行の『優駿』は昭和16年に創刊され、昨年70周年を迎えました。通巻では800号を超えており、これまでさまざまな作家・文化人の方々にご寄稿いただきました。

2012.5.5 レーシングプログラム掲載

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