競馬を愛した人々

競馬を愛した人々 #22 古井由吉


『優駿』対談に出席した古井由吉氏(平成6年)

 古井由吉は、小学生のころ、八王子競馬場のちかくに住んでいた。目黒競馬場跡ちかくにも住んだ。銀行員の父は、東京競馬場の馬券売上金を預かりに行く係だった。妻は福島出身である。なにかと馬と縁のあった古井が初めて馬券を買ったのは昭和42年夏の福島競馬になる。妻の実家に滞在したとき、退屈凌ぎに出かけてみた。配当の仕組みすら知らなかったがデビュー戦を白星でかざっている。人気になると惨敗し、人気が落ちると激走するので“新聞を読む馬”と言われた稀代の癖馬カブトシローが、秋の天皇賞、有馬記念を連勝する年である。


昭和49年★東京優駿(第41回日本ダービー) 1着コーネルランサー(中央) 2着インターグッド(14番) 3着キタノカチドキ(19番)
 古井の日本中央競馬会機関誌『優駿』初登場は、昭和49年7月号のダービー観戦記「橙々色の帽子を追って」になる。この年から、同枠取消馬問題の解決策として「単枠指定制度」が出来、皐月賞のキタノカチドキが最初の適用馬となっていた。7戦全勝で皐月賞を制したキタノカチドキはダービーも単枠指定となる。「橙々色の帽子」とは出走馬23頭中7枠にただ1頭のキタノカチドキのことである。それを破って優勝したのが関東馬のコーネルランサー。鞍上は中島啓之騎手。父は昭和12年に牝馬ヒサトモでダービーを制覇した中島時一騎手である。日本競馬史上初の父子二代ダービージョッキー誕生の瞬間だった。

 古井はこのとき、来賓席で、山口瞳、虫明亜呂無、海渡英祐、キタノカチドキの応援に大阪から駆けつけた阿部牧郎らと一緒に観戦している。コーネルランサーは後に種牡馬として韓国に寄贈される。その様子は、朝鮮生まれの古山高麗雄が『優駿』(昭和63年9月号)にレポートした。


昭和49年★東京優駿(第41回日本ダービー) 優勝した中島啓之騎手にはトヨタから車が贈られた
 昭和57年、古井は初めて日高を訪れ「栄光を吹き抜ける風」と題した牧場訪問記を綴る。舞台は、春の天皇賞と宝塚記念を勝ったモンテプリンスの故郷「杵臼斉籐牧場」だった。
  無敗の三冠馬が誕生する昭和59年のダービー観戦記も古井が担当した。6戦全勝のシンボリルドルフと、弥生賞と皐月賞でシンボリルドルフの2着になった以外には負けのないビゼンニシキが共に単枠指定である。古井はそこで10年前のダービーを振り返っている。単枠指定されたキタノカチドキが3着に敗れたダービーである。「あの時も私がこの優駿誌で観戦記をつとめさせてもらった。そのカチドキも今は亡い。観戦者のほうもその分だけ年を取った」。

 シンボリルドルフは勝ったがビゼンニシキが馬群に沈み、波瀾となる。2、3、4着は僅差だった。長い写真判定の結果、中穴の4─8が確定する。「同行者が寄ってきて、連勝馬券を教えてくれた。そこで我が競馬歴のうち、もっとも恰好のよろしいほうの台詩(せりふ)が、口から洩れることになった。──ああ、四・八でしたか。四・八ならありますよ。それにしても、強い馬でしたね」(優駿昭和59年7月号)。平成3年秋、馬番連勝馬券の全国発売によって単枠指定制度は廃止となる。最後の単枠指定馬はセントライト記念のレオダーバン(3着)だった。


昭和59年★東京優駿(第51回日本ダービー) 最後の直線で力強く抜け出したシンボリルドルフ
『優駿』名物の古井の随筆は、昭和60年4月号の「馬事公苑前便り」から始まる。1年後、「折々の馬たち─こんな日もある」と題を替え、昭和61年4月号から平成17年2月号まで223回続いた。名勝負にふるえた日、痛恨の馬券惜敗の日、競馬ファンがしみじみとつぶやく「こんな日もある」は静かな流行語になった。現在は「競馬徒然草」の名で連載されている。『優駿』を買うと真っ先に古井のページを開くという読者も多い。

 近代競馬150周年の年。天覧競馬が叶い、三冠牝馬が誕生した。フィナーレはグランプリ。競馬ファンそれぞれの「こんな日もある」。(文中敬称略)

五木寛之(いつき・ひろゆき)

昭和12(1937)年11月19日、東京都生まれ。75歳。小説家。『杳子』で芥川賞、『栖』で日本文学大賞、『槿』で谷崎潤一郎賞、「中山坂」(『眉雨』所収)で川端康成文学賞、『仮往生伝試文』で読売文学賞を受賞。平成9(1997)年に『白髪の唄』で受賞した毎日芸術賞を最後に、新しい作品を書く時の妨げになるとして、文学賞はすべて辞退している


JRA発行の『優駿』は昭和16年に創刊され、昨年70周年を迎えました。通巻では800号を超えており、これ までさまざまな作家・文化人の方々にご寄稿いただきました。

2012.12.22 レーシングプログラム掲載

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